1986-11-26 第107回国会 衆議院 文教委員会 第2号
以前は個性主義という言い方もあったのですが、これはちょっといろいろお考えのところがあったのでしょう、個性重視の原則ということになっておりますが、大臣の価値の多元化というのも同じような方向性のことだと思うのですが、一方でまた、これは大臣にお答えをしろというのはいささかつらいことになるのかもしれませんが、なかなか個性というものを認めようとしない政治家が多い、あるいは価値の多元化について理解の少ない政治家
以前は個性主義という言い方もあったのですが、これはちょっといろいろお考えのところがあったのでしょう、個性重視の原則ということになっておりますが、大臣の価値の多元化というのも同じような方向性のことだと思うのですが、一方でまた、これは大臣にお答えをしろというのはいささかつらいことになるのかもしれませんが、なかなか個性というものを認めようとしない政治家が多い、あるいは価値の多元化について理解の少ない政治家
ですから、皆さんが今までずっと第一次からやってきた教育改革の原則に続いて、例の自由化とか個性主義とか個性重視の原則がいろいろ変わって議論されてきた。それでようやく個性重視の原則になったんですがね、一番重要なところは。
最初は自由主義、それが個性主義、個性尊重、個性重視、こういうふうに変わってきたように新聞なんかでは拝見しております。個性というのを、例えば第一次答申、昨年の六月の二十六日ですね、第一次答申をお持ちだったら開いていただくとわかりますが、例えば十ページ、これは行の終わりの「である。」とか見出しみたいなのを含めて二十五行のうちに「個性」という字が十四個出てくるのです。大変な頻度で出てまいります。
それから個性主義、個性尊重、今個性重視という言葉が使われているわけであります。第一次答申の九ページに「個性重視の原則」というのがございますが、後でこの内容について質問させていただきますが、ちょっと驚いたんですけれども、十ページを見ていただきますと、個性という言葉が二十五行の中で十四個出てくるんですよ。何とこせこせと個性が入っているのかなと実は驚いたんです。
臨教審の方向を見ていると、個性主義ということで、創造性のある少数のエリートを一方で育てていきたいということが強く出てきているわけですが、先ほどの先生のお話ですと、これはもうすべての国民が技術の基本的なことについては理解しなくてはならないという方向であるというふうに私は感じました。
○海部国務大臣 今の具体的な例を通じての管理に対するお話でございますけれども、私たちは、戦後の教育の大きな流れの中で、画一的、形式的な平等主義は間違いであるということ、今の臨時教育審議会でも、個性を尊重しよう、個性主義の原則のもとに今審議も行われておると承りますし、また、私も現場の皆さんの声を聞かなければ教育改革はあり得ないということを申してまいりましたけれども、我々が気がついていない問題や新聞に報道
また、臨教審は、改革の基本的な方向として個性主義を挙げていますが、欧米諸国に比べて、はるかに一学級当たりの生徒数の多い我が国においては、かけ声倒れに終わるばかりか、当面のいじめや非行対策にしても、とても教職員の目が行き届かず、これを根絶することは非常に難しいのではないかと思われるのです。
過去に目を閉じる者は現在に対して盲目であるという言葉がありますけれども、実は前に日教組の委員長だった槇枝さんの「文部大臣は何をしたか」という本、大臣のところにも贈られたのじゃないかと思いますが、この中でも書かれていますが、戦後の新教育指針、あれには全く、臨教審がいろいろ論議をしているんですけれども、もっとあのときの教育改革に戻っていけば、あそこで何かいろいろ教育の自由だとか個性主義だとか個性の尊重だとかと
そして、これが根づいているか根づいていないのか、いろいろな評価がございますけれども、例えば個性主義とか個性の尊重とかいうことがいろいろ書かれておるにかかわらず、偏差値による輪切り教育が行われているという現状などを見ますと、こういったところはさらに教育基本法の精神を根づかせていかなければならぬのではないか、私はそのように理解をしながら、この審議経過の概要も読ませていただきましたし、またこれからこれをさらに
自由化ということは結局撤回されまして、個性主義というふうな言葉になりましたけれども、その個性主義、個性の尊重ということだろうと思いますが、これも私は必ずしもよくわかった概念ではないんじゃないか、つまり個性を尊重する、個性のある人間というのは、例えば石川五右衛門でありますとかヒトラーでありますとか、あるいは先ほど話が出ておりました文鮮明なんというのもある意味では非常に個性のある人間でございますけれども
○佐藤(誼)委員 このたびの改革に当たってということで、個性重視の原則あるいは個性主義ということになりましょうが、という言い方なんですけれども、それにしてもあなた方が第三の教育改革とまで言っているのですから、とするならば、最もメーンになっている人格の完成とか平和な国家、社会の形成ということを挙げない方が大体おかしいのです。
私どもは、こうした結果を、教育改革案策定に関する基本的考え方、個性主義、初等中等教育、学歴社会・生涯教育、臨教審の審議のあり方など二十二項目にまとめ、本年五月、臨教審に対し申し入れを行いました。総理は今後、国民合意をどのように形成されるのか、伺っておきたいのであります。
随分私はこれを読みながら道徳教育なのかな、修身教育の本を読むような感じだなと思いながら拝見をしておりましたが、教科書だとか学習指導要領、非常に拘束力が強いわけでありますけれども、それをめぐる規制をどうするのかなとということも、この自由化論争の中ではちっとも明確にならないままに個性主義そして個性尊重と、こういうふうに移っていったことについても納得がいかないものがあるわけですけれども、一体、この現行教育制度
○参考人(岡本道雄君) この「個性主義」とか――「自由化」という言葉と、それから「個性主義」になりまして、それから「個性の尊重」、「重視」と言葉が転々と変わったように一般的に言われておるのでございますけれども、これはこのたびの審議会の特徴が、およそ審議の内容をそのまま外に出しておるものですから、そういう印象をお受けになることはまことにもっともなことでございますけれども、およそ意見の違った者が集まって
その前は「個性主義」ですね、概要のときには。そして、その前が「自由化論争」というものが非常に大きく取り上げられて報告書の中にも載っています。この答申を見ますと、九ページに「改革の基本的考え方」として「「個性重視の原則」は、今次教育改革で最も重視されなければならないものとして、他のすべてを通ずる基本的な原則とした。」、こういうふうに書いてあります。
第一番目に、第一部会で大変御議論になりました教育の自由化、そしてこの答申の内容に盛られておりますところの「個性重視の原則」、これはこの答申に貫かれている最も基本的な一つの原則であろうと思っておるわけでありますが、これはこれまでの審議の経過の中で、ことしの四月に出されました臨教審の「審議経過の概要」の中を見ますと、「個性主義」という表現で述べられておるわけであります。
○岡本参考人 自由化と個性主義、こういう言葉の論争はもうこれでやめますということは申し合わせているのです。そして、具体的な問題を挙げまして、それについて二十五人で、もちろん専門委員も入りますけれども、しっかり議論する、そういうことは申し合わせておりまして、こういう言葉の論争は今後やりません。
「個性重視の原則」と、第一部会の審議メモそれから「審議経過の概要(その2)」に書いてございます「個性主義」とは、中身は同一でございます。
どういうところに相違があるかと申しますと、第一部会では、例えば個性主義というそういうようなところを非常に重点に出しておられる。
○齋藤(諦)政府委員 臨時教育審議会におきましては、第一部会において今後の教育の基本的なあり方が審議されておるわけでございますけれども、主としてその場におきまして、今お話のありました自由化とか個性主義とかあるいは個性の重視とか、こういうことが検討されておるわけであります。
○池田(克)委員 臨教審の内部ではいろいろと個性主義——最初は自由化という話が出ておって、それから個性主義、個性尊重、しかもそれが第一次の中間報告ですか答申には表に出ないという話もあったり、いや今度はそれが出るんだという話があったり、いろいろ報道を見ておりますと実に目まぐるしく変わっておりますが、これは実態でいいと思うのです。
〔白川委員長代理退席、船田委員長代理着席〕 あるいはまた、たびたびこの委員会の中でも論議がされましたけれども、教育の自由化や個性主義の問題、六年制中等学校、大学の共通一次試験の問題にいたしましても、国民意識と余りにもずれがあり、そして空回りしているのじゃないかという印象を国民の多くの人たちが持っているだろう、私はこのようにあの新聞を読みながら理解をしたところであります。
さらにまた、今の学校教育であなたが問題だと思うものは何かということに対しては、社会的にも政治的にも問題になっておりますけれども、いじめあるいは校内暴力が三六%、先生の質が三二%、道徳教育が不十分であるというのが三一%、偏差値による進路指導というのが二五%にまでなっているわけであります、また、臨教審の個性主義の問題について何か見たり聞いたりしたことがあるかということに対しまして、ないと答えたのが七〇%
臨教審自体が、自由化だの個性化だの個性主義だの、まだ教育の基本そのものについてだって随分やり合っているような状況の中で、果たしてこういうところまで進んでいくんだろうかという不安を持たないわけにはまいりません。 それで、その検討会議の力というのは一体どのくらいの力を持っているものなのか。あの報告書というのはもう審議会の答申と同じような力を持っておりますか。
そこで、今の答弁に絡んで二つのことが私は問題だと思うのですが、経過を見ますと、自由化、個性主義、主義は適切でない、個性の尊重、いろいろ変わってきていますね、簡単に言いますと。これは変わることが悪いとは言っていない。
それから、もう一つの問題は、若干内部に立ち入りますが、例えば教育の理念などについても、臨教審の経過をずっと見ますと、時間がありませんから端的に言いますが、例の教育の自由化の問題から、この間の「審議経過の概要(その2)」ではいろいろな議論の結果、個性主義になり、今またいろいろな経過の中で、答申の中には個性の尊重というふうに変わっていくやに聞いています。つまり柱となるべき理念がくるくる変わっている。
例えば自由化というのは、あるいは教育の自由化とか、あるいは制度の自由化とかそういったものはややともすれば国民にわかりにくい、そういうところから個性主義という言葉が適当ではないかという議論が出され、主義というのも適当ではないなということで、個性の尊重とか個性の重視とかいうふうに表現方法について議論が分かれて、そして活発な意見の交換がなされておるというふうに私は見ておるわけであります。
今ここで自由化がどうの、個性主義がどうの、個性化がどうのという中身をお聞きしようとしているのではありません。討議されたプロセスというか経過、そういうものが慎重に、討議経過が委員会なり国会に報告されることによってつまらない誤解を解く、そういう皆さんの道もあるだろうと思います。こういう意味で、経過を含めてこの審議を国会に御報告なさるお考えはございませんか。
そうしたら教育にはならぬわけですから、今例えば臨教審で自由主義教育であるとか、個性主義、個性の尊重だとか言っておるわけですが、これこそ行き届いた教育をしなければ、今議論されておるのは空理空論、何かしら教育を教育的に論じなくて政治的に論じてみたりあるいは経済的に論じてみたり、そういう論としか私には映らないわけでございます。 今、園児もどんどん減っているわけでございます。
この第一部会長の天谷さんは松下幸之助さんの京都座会のメンバーでも筆頭に名を連ねておられる方でございますが、その中で私が大変気になりましたことは、これまでの日本の教育は個性を殺す教育であった、個性を伸ばす点において工夫が足りなかったとかいう言葉ではなくて、これまでの日本の教育は個性を殺す教育であった、こういう言葉がございまして、そしてゆえにこれからは教育の自由化、個性主義というのが重要なのであるという
その点、従来は必ずしも十分でなかったので教育基本法にも明示されておるとおり、その点の反省をひとつ個性主義というものでいこうと、そういう認識でございます。
なお、このことに関連しながら画一主義と個性主義ということが対置する、対立する概念のように臨教審の論議をかいま見る限りでは言われているわけでございます。しかも画一主義と個性主義というのは、確かに画一、個性という概念をもってすれば対立する言葉でございます。